戦国武将のお話 その2

2022.03.30

CATEGORY : 歴史

こんにちは!陸奥守です。

しばらくバス通勤でしたが、ようやく自転車で通える季節になりました。
弘前にきてまだ日が浅いこともあり、バス通勤では見えてこなかった風景がいろいろと見えてきて新鮮です。
昨日は無駄にコンビニ3件とスーパーをハシゴしてしまいました(笑)

 

さて、今回も戦国武将の話を書きたいと思います。

今回ご紹介するのは、偉大なる初代の後を継ぎ関東にその威を轟かせるべく様々な政策を行った方……。

 

そう、みなさんご存じ(?)北条氏綱(1487年~1541年)です。

 

は?早雲(初代)とか氏康(三代目)とかじゃねーの?って突っ込みは受け付けません
(-×-)
たしかにこのお二方と比べるとどうしても地味になりがちですが、北条家を関東の覇者に押し上げるべく強気で積極的な行動をたくさんしています。

 

  • 「北条」氏への改称(1523年)
    よく勘違いされがちですが、初代 早雲(本名:伊勢 盛時)の時代はまだ伊勢氏を名乗っており、北条氏と改称したのは2代目の氏綱からです。
    鎌倉時代の裏番長であった執権 北条氏と同一の名字を名乗ることで、関東一円のラスボスであることを主張します。
  • 鶴岡八幡宮の再興(1532年~1544年)
    焼失していた鶴岡八幡宮という武門の守護神(源頼朝)たる神社の造営を手掛けることで、関東の権力者であることをアピールします。
    ちなみに「こんな大事な神社を修繕してやるんだからお前らも金出せよ」と関東の諸将から奉加を迫ったりもしています。(無視する大名も多数でしたが)
  • 今川氏との主従関係からの脱却(1537年)
    早雲の代では今川氏とは主従関係にありましたが、今川氏が仲の悪い武田氏と勝手に同盟したため、ブチ切れた氏綱は今川領へ侵攻・占領することで主従関係から脱却します。
    これは後に三代目 氏康の一大エピソードである川越野戦の要因にもなってきます。
  • 房総半島への進出(1538年)
    こんだけあっちこっちへドヤ顔してると当然周りからは敵視されてしまい、一時的に北条包囲網(武田、今川、山内・扇谷上杉、古河公方 ※、etc)ができあがります。
    一大ピンチを迎えるわけですが、古河公方や安房(千葉県南部)里見氏の内紛によって包囲網は瓦解、逆に内紛に参加して大勝し、房総半島の一部を占領します。

    • 古河公方(こがくぼう)ってのは元 鎌倉公方のことで、争いが激しくなって鎌倉にいれなくなったんで下総の古河御所(茨城・栃木・埼玉の県境付近)に逃亡してきた公方様です。
      さらに公方ってのは将軍という意味で、鎌倉公方 ≒ 関東支社長(京の公方が社長)というイメージです。
  • 将軍家との繋がり強化(1538年~1539年)
    さきの内紛の勝利に喜んだ古河公方(内紛時は同じ陣営だった)は、非公式ながら氏綱を関東管領 ※に補任します。
    さらに氏綱は古河公方に娘を嫁がせ、将軍家との血縁関係を強化します。

    • 「関東管領」とは将軍の補佐役なので、建前上は関東 No2 です。

 

以上、北条二代目も色々活躍したんだよって話でした。
少しでも氏綱くんの印象が深まれば幸いです。

余談ですが「勝って兜の緒を締めよ」という格言(遺言)を残したのも氏綱だそうです。

今後もマイナー路線で攻める気がしますが、それではまたの機会に~|ω・)ノシ

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