戦国武将のお話 その3

2022.06.02

CATEGORY : 歴史

こんにちは!陸奥守です。

今回は第1回で取り上げた毛利氏の元 主家であり、応仁の乱の頃は西軍の主力となるほど強大な勢力であった大内氏から武将をご紹介したいと思います。
正直これまで以上にマイナーです(-ω-)

大内氏は古くからの名家であり、毛利氏が勢力拡大するまでは山陰・山陽および北九州の6か国を支配するほどの勢力を誇っていました。
また第15代当主 大内義興(おおうち よしおき)の代には将軍 足利義稙(あしかが よしたね)を擁して上洛を果たしております。なんとあの織田信長よりも前にです!

当然臣下も優秀な人材が揃っておりますが、その中でも取り上げるのは

弘中隆包(ひろなか たかかね)

という武将です。
(信長の野望ではついつい能力値を高めに変更しちゃうお気に入りの武将の一人です。)

今回の登場人物のおおまかな相関図です(1540年代頃)。

 

    • 名門・知勇兼備の名将
      弘中氏は清和源氏(せいわげんじ)という一流の血統の出自で、代々 周防(すおう)国 岩国(現在の山口県岩国市)の領主でした。
      また知勇兼備の名将として当主 義興・義隆(よしたか)父子から大きな信頼を得ており、義隆が安芸国の守護に任命されると隆包は守護代に命ぜられました
      山陰を中心に拡大し始めた大内氏最大のライバル 尼子氏討伐(1542~1543年:第1次月山冨田城の戦い)の際には毛利元就と意気投合し、意見を共にして義隆に献策するほどでした。
      (かなり頭がよくないと、元就と一緒に意見なんてできないだろう……)
      尼子氏討伐失敗後も、安芸(あき)国(広島県西部)における大内家の主力として毛利家を含む国人衆と協力しながら活躍しました。
    • 大内家の内乱
      1551年、大内家の重臣 陶晴賢(すえ たはるかた)がクーデターを起こし、当主 大内義隆を死に追いやります。(大寧寺の変)
      尼子氏討伐の失敗以来 覇気を無くしてしまった義隆についていけなくなったようです。
      このとき隆包は反対論を主張したともいわれますが、最終的には晴賢側についたようです。
    • 毛利家との敵対
      晴賢が大内家の実権を握ると、徐々に毛利家との仲が険悪になっていき、1554年にはついに敵対します。
      このとき元就は、隆包と同じく元就の力量をよく知る江良房栄(えらふさひで)という武将を警戒し、「房栄のやつは裏切りものだよ」と大内方に偽情報を流しました
      隆包・房栄 両者の内通を疑った晴賢は、隆包に「身の潔白証明すんなら房栄を殺れ」と命令し、隆包は泣く泣く房栄を切ります
    • 厳島の戦い(前編)
      1551年、晴賢は打倒毛利のため、海路から厳島(いつくしま)を経由して安芸国へ攻め入る計画を企てます。世にいう厳島の戦いの発端です。
      このとき元就をよく知っていた隆包は「絶対罠だって。陸路から行ったほういいって、いやマジで」と再三(晴賢本人、当主 大内義長、晴賢の嫁などに)説得を試みました
      しかし晴賢はガン無視、ついには隆包の忠告もむなしく厳島に渡海することとなります。
      渡海後、隆包は村上水軍が毛利家に付いたことに気づくと「はい負け確定……」と悟ったそうです。
    • 厳島の戦い(後編)
      隆包の予想通り、晴賢率いる大軍隊は狭い島で身動きが取れずパニックに陥り毛利・村上連合軍に包囲殲滅されていきます
      大内家の軍勢が大混乱に陥る中、唯一陣を確保した隆包は総大将の晴賢を逃がすべく丘陵へ上がり 500 足らずの軍で孤軍奮闘します。
      最後は100名足らずになっても籠って粘り続けましたが、3日間の激闘の後、ついには吉川元春の軍に囲まれて討ち死にします。
      ちなみに晴賢も最後は退路を断たれ、自刃しています。
  • その後
    元就は隆包の死を悲しみ、弘中の縁者を特に厚く遇しました。かつては共に戦った隆包の優秀さ・誠実さをよく理解していたからでしょうね。

 

隆包の忠節ぶりは現代でも西国の悲運譚として講釈等で語り継がれているそうです。
もし晴賢が隆包の忠告通り陸路から攻め入っていたら、あるいはもし隆包が毛利家の家臣だったら、などと妄想せずにはいられませんね。

それではまたの機会に|ω・)ノシ

 

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